続・だらだら山歩き

d.徒然草

おもいつくままにメモ書き 2020.4追記

相名峠

周桑郡丹原町の保井野の住人、伝五郎の妻が上浮穴群面河村へ行く途中、この峠で狼の群れに襲われ、ブナの木に登って助けを求めたが、力尽きて食べられてしまったという。 愛媛ゆうゆう山歩き 平成14年
というイメージが有ったのだけれども、先日図書館で偶然この峠に関して見つけた。たまたま聞いたから記しておく、ぐらいの内容だったが。
 「相名峠は人遠や、新五郎恋しやオモノ木や」という俗謡がある。何時の頃か保井野から久万山の新五郎という若者に嫁していた女が、亭主が嫌いになって離婚して実家に逃げ帰らんとして、独り相名峠にさしかかったが、狼の群れに襲われたので、難を避けんとしてブナの木に登ったが、狼は何匹も背中を這い上がってとうとう女を食い殺した。オモノ木とはブナの木の方言で、女の墓が峠にあると角之助さんは話したが、見つからなかった。
というものであった。ここでわざわざこんなことを残しても角が立つが、基本これぐらい昔の離婚はだいたい女性が悪いという事になる。新聞でもそんな扱いになる。

十郎アレ あれ
私が歩く範囲で残っているのは名古瀬から瓶ヶ森に上がる十郎アレだが、日本全国に残る「アレ」という地名らしい。どこかで「アレー」みたいな危ない場所だろうか、というコメントを見たのだが、古い書物に「荒」という表記を見た。確かに、すごく自然。

石鎚山 いしづちさん
石鎚は3山からなる山域名である。それはすなわち、弥山、天狗岳、南尖峰である。とされるケースが非常に多いのだけれども、昭和40年ぐらいの出版物で、南尖峰~西之冠までの総称である。という表記を見た。なるほど、確かにそれなら三角点が今となっては無名の尾根にいるのも納得。確かに遠方から見る石鎚の石鎚らしさというのはその範囲である。

石鎚山のご本尊
極楽寺さんはお寺なので、神仏分離のもと石土毘古命 (いわつちひこのみこと)という神様は立てられません。仏様である金剛大権現様をたたえるのです。まぁ、日本人らしさというか今は石鎚大神という神様の一つの側面であるよ、みたいな感じで納めています。
時の政府は長いこと神道を押さえ仏教を広めようとして来ました。そうした歴史を越え大戦時に日本古来の神々を立てたわけです。まぁ天皇がそうか。
※この記事は着手したいなと思っています。

格言 かくげん
登山に関する格言だと勝手に思った言葉。
「登山とはそこに冒険心があるかどうかだ」
「山に高低あれど山に貴賤無し」
「持って帰って良いのは思い出と写真だけ」

峨蔵越 がぞうごえ
赤石山脈の東の果て近くにある峠名。あの辺りは難しい山銘も多く、その一環だろうけどなんだろうと思っていたのだが、「峨」とは険しい山などを意味する言葉らしく、岩山だったりに時々用いられるらしい。つまりは岩場も多い険しい峠、みたいな意味だったんだろう。

靴のフィッティング くつのふぃってぃんぐ
雑考でもいいのだけど、これは一つの結論だと思ったのでここに残す。登山靴はまず自分に合わなければならない。これは万人の足形がある以上、オーダーメイドでなければ多少は自分が妥協するものである。しかして反面、フィッティングというものがよく分からないままに浸透している。私見ではあるが基本としてはめいいっぱい締めろ。そして少し慣れてくると緩くていいんだ。確かに緩くてもいい(えー) まず、かかとをつける。というか、爪先を上げ足裏に力が掛からない状態を作る。そうしてこの状態の足の形に靴をそろえていく。軽く締める。限界まで締め続けていく必要はない。というかそういう事をすると靴も変形するし足の血行、神経も損なう。そうしてミドルカット以上なら立ち上げ以降は少ししっかり目に締めればいいものだと思う。となると、靴を上手く履く人は、靴紐を緩めてから履く人という事になるだろう。ただまぁ、安い靴だとゆったりめに作っているので靴紐を締めても緩い事が多い。フィットは諦めて長靴気分で歩くのもよかろうと思う。と、ここで追記。立ち上げに移行する最初をしっかりめに締めて足首をそのままなんどか動かすと深い所にかかとが落ちる。そのまま立ち上げを止めて最後紐を結ぶさいにも足首を動かす。そうするとミドルカット以降の靴ならよりフィットが増す。しかしショップのフィッティングでこういうの聞いた事が無いな?


シーンズパンツ じーんずぱんつ
登山にジーンズなんてとんでもない! と、基本の約束事として語られてきた分けであるが、現実問題として、最近のデニムはどちらかというと綿を使ったものの方が少ない。デニムなのに摩擦引き裂きに弱いとはコレいかに。しかし、保水問題は生地素材から来ていた分けで解決されている。ひざ上げしにくいやろうというと、確かにしやすい分けではないが、化繊を使うということは伸びるという事でまったく合わないという事も無い。まぁジャージでいいと思うけれども。

岳 たけ
天狗岳など山の名前になっているケースも多いのだが、岳は嶽であり特に愛媛においては険しい岩山に付けられることが多いように思われる。

登山とは
登山とはなにか、もっというとトレッキングと登山とハイキングの違いはなにか! みたいな感じの思った事は確かにあるしタイトル下にもあるがなんとなくハイキングには抵抗したい。なんでですかね? 私の持っている言葉の雰囲気がキャハハウフフなのかもしれない。現在では、登山とトレッキングは高度の高い山地を歩き、登山は高いピークを目指す。ハイキングとは自然を楽しむ事が目的なので山である必要はない。という風に大体区別している。でも実際問題、生まれた環境と時代が違うだけじゃないですかね( ´∀`)
 わざわざ記事に起こしてなに落書きしてるんだと思われるかもしれないがここからが本題。登山黎明期の書籍にはだいたいこう記されている。「登山とはそこに冒険心があるかどうかだ」時代的に対するはハイキングであって、こちらには行楽的な意味合いが強いとなる。なんだか気概すら感じられる、しかしとても腑に落ちるいい言葉だと思う。

東赤石山 ひがしあかいしやま
昔は赤太郎尾と呼ばれていたが、陸軍の発行した地図に突然名付けられていた。それからなんとなく受け入れられ今に至る。

六地蔵
石鎚周辺ではどこの集落にも奉られていた様子のあるもの。


備考
2020.3~
石鎚ロープウェイメインケーブルの張り替えが行われた。







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