1942年10月半ばのある晩であった。私は四国道後温泉の共同湯に浸りながら、浴槽の中の装飾の円塔に刻んである、山部赤人の「至伊予温泉作歌一首並短歌」を眺めていた。眺めていたというのは、「皇神祖之神乃御言乃……」というような万葉仮名だったから、むずかしくて読めなかったのだ。ただその中に「伊予能高嶺」という文字を見つけ、うれしくなってそこばかりみつめていた。その翌日、私はその伊予の高嶺を登ることに決めていたからである。
伊予の高嶺とは石鎚山のことである。
日本百名山新装版 深田久弥著 より抜粋
ということで、実際に読んでみた。
もう深田氏の山好きである事と、その見事な文章回しにめろめろである。
長くはないので是非読んでみて欲しい。
前回の謎はもちろん解けている。
氏は面河より天狗岳まで登り詰め、表参道を下ったとの事であった。
1942年、昭和17年。
石鎚周辺の集落も最盛期を迎えていた頃になる。
もちろんロープウェイも無ければ、成就社は以前のもので社内には天然記念物になるような木々が繁っていたという。
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